文化の薫り残る、歴史の源へ。

柴田の久遠なる歴史を振り返る時、時代の荒波にもまれ、やがて歴史の露と消えていった先人たちの遙かな想いがよみがえる。

柴田町の歴史をひもとく時、私たちはまず、槻木耕土を取り囲む丘陵に点在する貝塚から解きおこさなければならない。それらは、鹹水から淡水へ、そして沼沢地から耕土へと、自然ないし生活環境の変遷を語りかけてくれる。さらに、ここから出土した土器は縄文早期の土器のひとつの指標となっている。以後、上野山の斜面のここかしこに、かなりの数と見られる円墳群が築造されているが、およそ七千年あまりは、これらの土中に埋もれた、遺物、遺構などによって当時の生活の一端をうかがい知ることができるものである。

ついで奈良、平安、鎌倉時代と、船迫は都と陸奥の国府を結ぶ街道筋にあった。文治の役では源頼朝がこの地に宿泊している(一一八九=吾妻鏡)。また、鎌倉時代の中、末期に見る鉄仏や磨崖仏群は、往事の文化はもとより他の地域との交流を知る手掛かりとなるものであろう。

さらに、室町、戦国時代を通じて、町内十数カ所に残る城、館跡は、そこによった館主たちの野望と挫折の後といえるかもしれず、あるいは南朝方に、あるいは北朝方につき、また伊達氏に従い、あるいは叛きながら近世を迎えるようになるのである。
このうち船岡館山には四保柴田氏が居館、志田郡桑折に所替え後、屋代氏が、つづいて原田氏が邑主となり、寛文事件(一六七一)を経て再び柴田氏の住むところとなる。船岡、上名生、中名生、船迫、成田、小成田、海老穴、葉坂は柴田氏。入間野、入間田は黒川郡宮床の伊達氏。四日市場、上川名、富沢は伊達家家臣に分領され、さらに下名生は御蔵入りとして明治維新を迎えるのである。

明治維新(一八六八)は柴田氏当主意広の切腹という悲劇(白鳥事件)で始まるのであるが、それに伴い家中の約半数が新天地を北海道(現在の伊達市)に求めて移住(跋渉といわれる)、歯が抜けたように空き家が目立ちかつての侍まちは荒廃していった。さらに風水害はこれに拍車をかけたのである。明治二〇年十二月東北線開通。槻木駅も開設(明治二四年一月)され貨物の集散地として、また角田馬車軌道のターミナルとして賑わいを見せた。しかし、近代国家への変貌がはらむ様々のひずみは、風水害と共にこの町をも痛撃した。明治末期の大凶作はそのピークともいえよう。

しかしながら、当町における水利、河川改修など、治水に対する不断の戦いは、先の時代から引き継いだ最大の懸案であったが、たゆまぬ努力は見事に実を結び今日に及ぶのである。

昭和に入り、船岡第一海軍火薬廠の建設は、それに先立つ船岡駅開設同様、住民に光明をもたらすものであったが、第二次世界大戦後の終結とともに閉鎖されるに至った。しかし、今にしておもえば、この火薬廠によって確保された広大な土地は、新生柴田町発展の原動力となり、今日の隆昌を見るに至ったものと考えられるのである。


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